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樊城の戦い218年、侯音は宛で曹操に対して反乱を起こし、関羽と手を結んだ。219年春正月、曹操の部将の曹仁は宛を陥落させ、侯音を斬った。
219年、劉備が漢中王を称し、関羽は前将軍・仮節に任じられた。この年、関羽は水陸両軍を率い、息子の関平、都督の趙累らとともに樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍を率いた于禁が駆けつけるが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没。関羽は船団を率いて攻撃をかけ、于禁と彼が率いていた3万の兵を降伏させ、龐徳を斬った。また、このとき荊州刺史・胡修、南郷太守・傅方らが関羽に降っている。関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して襄陽までも包囲した。さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、曹操領内の群盗などが一斉に蜂起。丞相掾・魏諷までもが関羽に通じて反逆を起こし、中原は震動。曹操は狼狽して遷都まで考えるほどであった。
だがそれより前、孫権から関羽の娘[1]に、彼の息子との婚姻の申し入れがあったとき、関羽はこれを断り(「虎の娘を犬の子にはやらん」との発言が『三国志演義』等に見られるが、正史には見られない。 )、孫権を怒らせたことがあった。 曹操の部下の司馬懿と蒋済は関羽と孫権の仲が悪くなったことを見計らって同盟を結ぶ事を提案し、曹操は孫権と同盟を結んだ。その一方で、徐晃を派遣して曹仁を救援させた。 これにより関羽は逆に曹・孫両軍に挟撃されてしまう事になる。
曹操の部下の董昭は曹操に「樊城の将兵の士気を高めるためと、関羽の曹操軍への戦意を喪失させるために、孫権が曹操と同盟を結び関羽の背後を攻めることを、樊城の曹操軍と関羽に漏らすべきです」と提案した。曹操はこの提案に従い、徐晃に樊城の曹操軍と関羽軍に孫権参戦の情報を伝えさせた。この情報を聞いた樊城の曹操軍の士気は大いに上がった。
孫権は呂蒙・陸遜らに南郡を攻めさせ、関羽に不満を持っていた糜芳と士仁に誘いをかけ寝返らせ、関羽の本拠地の江陵・公安を奪い、その後も荊州の劉備領を攻略した。
一方、関羽は徐晃に攻撃され、敗れたので、樊城の包囲を解いた。その後、孫権は関羽軍の輜重を奪ったが、それを聞いた関羽は襄陽の包囲も解き、撤退した。呂蒙は関羽や関羽の部下の妻子たちを捕虜にして厚遇したので、関羽の部下達は敵対心を失って、関羽の軍は四散し、大半の将兵が孫権に降伏した。そして、ついに臨沮で関羽と関平は退路を断たれ、潘璋の部下の馬忠に捕らえられ、斬首された。
王隠『蜀記』によれば孫権は関羽を部下として使いたいと考えたところ、側近に「曹操は彼を殺さなかった為に遷都まで考える事態となった」と進言され、諦めたという記述が残る。だが裴松之は、「『呉書』の記述から、関羽は臨沮で即座に斬殺されており、おそらく江陵に居たであろう孫権に同意を求める事は不可能だろう」と推測している。また、諸葛瑾伝注によれば、裴松之は「孫権は関羽を討伐した事により、後漢王室の為に尽くすという大義名分は失われた」と評している。
関羽の死後 関羽の首は、孫権の使者によって曹操のもとへ送られ、曹操は諸侯の礼をもって彼を葬った。222年、関羽を殺された劉備は怒りのあまり呉に対して夷陵の戦いを起こしたが、大敗を喫した。
景耀3年(260年)、蜀漢の劉禅より壮穆侯の爵諡を送られた。
263年に鍾会らにより蜀が滅んだ際、龐徳の子・龐会が関羽の一族を皆殺しにした、と東晋の王隠著『蜀記』に記されている。現在、関羽62代目の子孫を名乗る関新剛が中国に存在するが、関羽の子孫かどうか実際の所は不明である。
いやー関羽おわったおわったw
でもねこのまえ横山光輝三国志読んでたんだけど
関羽の千里行がおもしろいねww
まぁあれはフィクションなんだけどw
もっといいたいけど・・・
次回!!
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